教科書の中の「サラエボ事件」とドラッカーに依る現実の「サラエボ事件」、そして、新たな文明が創られた…

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「知の巨人 ドラッカー自伝」ピーター・F・ドラッカー,牧野洋 訳・解説,日本経済新聞出版社

この自伝は、日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」を、文庫版としてまとめた名著です。

 

その冒頭、ドラッカーは述懐する。

 

「私が生まれたのは1909年11月19日、第1次世界大戦が始まる5年前のウィーン。今はアルプスの小国オーストリアの首都で、もっぱら「音楽の都」として知られている。とても国際政治の中心にはなれないが、当時は数百年にわたって欧州に君臨したハプスブルク家が支配し、人口は5000万人に達する大国オーストリアハンガリー二重帝国の首都だった。」

 

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「音楽の都」…イイ響きだ。←すっかり酔いしれてしまい社会復帰が危うい鬼塚であった汗


さて、本題に戻ります。

 

「14歳か15歳になったころ、父アドルフから「お前が5歳にもなっていないころ、夏休みにアドリア海を一家で旅行したことを覚えているか」と聞かれたことがある。

私はうなずいた。ビーチと砂浜が目の前に広がり、そこで風変わりな水着を着た母キャロラインと一緒に砂の城をつくった記憶がかすかに残っていた。続けて「あの時、早々と夏休みを切り上げたことはどうか」と聞かれたが、覚えていなかった。

実は、あの時に第1次大戦が起きたのだよ。お父さんは何年分も休暇をため込んで、お前たち兄弟とたっぷりひと夏を過ごすつもりだった。だが、皇太子暗殺の知らせが飛び込んできた。戦争は何としても回避したかった。だから、急きょウィーンに戻ることになった」

 

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1914年6月28日。ボスニアの首都サラエボドラッカー家の、ピーター自身の、そしておそらく我々の運命を変える事件が起きた。

 

「1914年6月、大戦の引き金となる事件が起きた。帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント皇太子が、ボスニアの首都サラエボで暗殺されたのだ。外国貿易省の長官として帝国政府内で影響力を持っていた父は、家族を連れてウィーンへ戻らなければならなくなった。」

 

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狙撃された皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の乗っていた自動車。

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大公がその時着用していた衣服。同乗していた妻に、「ゾフィーゾフィー!死んでは駄目だ。子供たちのために生きてくれ」それが彼の最後の言葉となった。

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これらはすべて、ウィーン軍事史博物館に展示してある。

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ウィーン軍事史博物館

www.hgm.at

 

その時、父アドルフは…

 

「父は平和主義者として知られていた。財務省の高官で同じ平和主義者の友人から「軍部がむちゃな戦争を起こさないよう説得工作に協力してほしい」と頼まれ、快諾。ウィーンでは大臣や政治家の説得に乗り出したり、側近を通じてフランツ・ヨーゼフ皇帝に直訴したりした。」

 

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フランツ・ヨーゼフ皇帝が執務した、シェーンブルン宮殿。毎日、早朝5時から16時間におよぶ激務だったという。

 

「しかし、それは徒労に終わった。息子を失い、80歳を超えていた皇帝にはもはや軍部を抑える気力もなく、帝国は独立国のセルビアに宣戦布告。セルビアを支援するロシアなどが黙っているはずはなかった。ついに大戦の火ぶたが切って落とされた。」

 

「幼かった私は戦争のことなどわからず、父がどんな仕事をしているのか知るよしもなかった。それまで通り近所の子供たちと一緒に遊び、学校へ通った。

育ったわが家はウィーンの郊外にあった。ぶどう畑の中にある陸の孤島のような開発地区に建てられ、大通りから隔離されてとても静かだった。2階の窓から下を見るとウィーンの街全体、上を見るとぶどう畑の先にウィーンの森を一望できた。」

 

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ピーター少年も眺めたであろう、ウィーンの森の入口Kahlenbergよりウィーンの街が一望できる。右手に、Grinzingのぶどう畑が広がる。

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ドラッカーの生家は、ウィーン19区デーブリングdöbling カースグラーベン通りkaasgrabengasse 36番地に現存する。

 

「この地区は10世帯しかなく、子供は全員で15人。これが幼い私にとっての全世界である。仲のいい両親を持ち、比較的富裕な家庭環境にあって、何不自由なく過ごしていたと思う。ちなみに、15人のうち今でも生きているのは、18カ月年下の弟ゲルハルトと私だけだ。」

 

今でこそ高級住宅地として名高いエリアですが、当時10世帯しかなかったとは…歴史を感じますね。

 

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「著名な建築家 Josef Franz Maria Hoffmannの設計による」とプレートに示されている。が、ドラッカーの生家ということは地元の人にも殆ど知られていない。

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現住人を訪ねようかとも思ったが…サスガに、それはやめた。笑


「大戦勃発時に私には帝国の首都に生まれたという意識はこれっぽっちもなく、ウィーンの外の世界に関心を持つようになったのは大戦後の9歳か10歳になってから。その時には、アドリア海からロシア国境まで広大な領土を持っていたハプスブルク帝国は敗北し、解体され、もうなくなっていた。」

 

当時、ピーター少年が聴いた、オーストリア=ハンガリー帝国の政府高官だった父アドルフと、後のチェコスロバキア初代大統領トーマシュ・マサリクとの会話・・・「文明の終わりだね」と言ったこれらの出来事。

 

その少年が、後に、新たな文明である「マネジメント」を創り出すとは、まだ、誰も知らない。