先週、↑こんな記事↑書いたんです。
何を隠そう #芭蕉フリーク の鬼塚が、
壱岐に在る、
河合曾良さんのお墓参りをしたハナシ。
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そして今週。
鬼塚は山形にいた。
興味のない人には全く面白くない話が申し訳ないがまだまだ続くのである。
一年ぶりの、再訪。
山寺♪
しかしコレはあくまでも通称。
Webサイトにもキッパリと、
元禄二年(1689)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
の名句を残しました。
1689年・・・
ちなみにこの年は、
・生類憐みの令で有名な、第五代将軍・徳川綱吉の時代
・松尾芭蕉の俳諧をはじめ、井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の浄瑠璃、菱川師宣の浮世絵が誕生し、元禄期に花開いた文化「元禄文化」の時代です。
『おくのほそ道』によると、
江戸→栃木→福島→宮城→岩手・平泉→山形のルートを辿り…
山形領に立石寺といふ山寺あり。
一見すべきよし、人々の勧むるによつて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。
日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。
岩に巌を重ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。
岸を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として 心澄みゆくのみおぼゆ。
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
と記しています。
1,070段の階段を登った先には…
俳聖松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは元禄二年(1689)旧暦で五月二十七日(新暦七月十三日)、紀行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿坊といわれています。
その後、翁に連なる弟子たちがこの地を訪れ、往時の面影から翁を偲び、この場所が芭蕉翁が句の着想を得た場所ではないかと、翁の遺した短冊を土台石の下に埋め塚を立てたものがせみ塚となります。
その後、山寺は斎藤茂吉をはじめ多くの俳人・歌人が訪れ、今尚変わらぬ風景に芭蕉翁を感じた方々が残した詩が参道の至るところに句碑となってご覧になれます。(立石寺Webサイトより)
向かって左手へ順路を進むと…
いたー!(という表現が妥当かはともかく)
そして、
前記事からの主役…
恍惚の立石寺を後にした鬼塚は、
しかしその後も、
「雲の峯 幾つ崩れて 月の山」@出羽三山
「暑き日を 海にいれたり 最上川」@酒田
そしてさらに!
ん?それがどうしたって?
フフフ
そしてそしてさらにさらに!
ってことで、
タイトルの解説で〆。
河合曾良が、
「芭蕉、師匠、一生、一緒、っしょー?」
おあとがヨロシイようで(汗)・・・・・。